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鎖が見えた。
金色の鎖……。金細工のそれが、俺の足首に繋がっている。
『おまえのために特別に誂えたものだ。鴉は光物が好きなのだろう?』
揶揄を込めた声に、表情を変えずに礼を言う自分の声がまるで他人のもののようだった。
こんな細い鎖で本当に俺を繋げるはずはない。ただの飾りだ。
伏せた視線に毛足の長い絨毯が映り、促されてゆっくりと顔を上げると優美な曲線を描いたカウチの脚が見える。
豪奢な小部屋は、銀の檻の中だ。鴉の王を入れておくための大きな鳥かご。
俺の仕事ぶりが気に入らない時はもちろん、ただ機嫌が悪い。退屈だ。そんな理由で呼び出されたこともあった。
どんな暴力で、言葉で辱められるよりも、この鳥かごは嫌だった。
………俺は、見世物じゃない。
今さらなのに、そんなつまらない文句を言いたくなる。
詮無いことだ。
手首の赤い印が光を帯びれば、俺はすぐに参上しなきゃならない。
文句は言えない。不満は出せない。望む通りの反応を読んで、ひたすらに満足させなければならない。
俺がしくじって死ねば、この印は次の王に受け継がれて行く。
たとえもう「鴉王」としての体面すら保てないような者になっても、キルヴァスの民が、あるいは鴉の民が最後の一人になるまで、永遠に受け継がれて行くんだ。
ほかの種族のように強さだけじゃない。判断力、戦闘力、知識、あらゆるものが必要な鴉の王だ。次がないなら、次の代が育つまで、俺がこの印を守るしかない。
でなきゃ、キルヴァスが引き金になってラグズそのものが滅びかねない。
痛みはすぐに麻痺した。他に方法はなかった。
『可愛げのないことよ。赦しを乞う気にはならぬようだな』
今日は機嫌が悪いから退屈しのぎに呼び出されたらしい。……最悪だ。
なにをやっても因縁をつけられる。こんな時はもう、嵐が過ぎるのをただじっと待つしかない。
少しでも「ご主人様」の機嫌が良くなるよう、ぎりぎりまで突っ張って、隠し切れない悔しさを滲ませて、顔を上げないまま、最後には屈服したように項垂れる。
自分の感情なんてとうに忘れた。
本当は嫌なのに、耐え切れない。そう見せなけりゃならない。
簡単にプライドを投げ捨てて泣いたって効果はないんだ。
それを知ってるから、俺は連中の歪んだ笑みの奥の望みを読みながら口を開いた。
細い、哀れな声で泣いた。
半獣と蔑まれても、王なんだ。
その王を踏みつけに出来る。そんな昏い喜びを満たしてやる。
握られた翼が折れる音を聞きながら、霞んだ頭の片隅に真っ白な親友の笑顔が浮かんだ。かよわい鷺の身なのに、誇り高くて高潔な眼差しで……。今の俺を見たら、あいつは泣くだろうか。怒るだろうか。
王になった俺の所業を、いつまでも叱ってくれる優しいやつだ。
……怒っていて欲しかった。
どんなに呆れても、どんなに憤っても……ずっと、忘れずに俺のことを怒っていて欲しい。幼い頃に繋いだ手を離されるのが怖かった。
『本当に自分の痛みには強情な。虎を連れて来い。鴉の娘もな』
『や…やめてくれ…!』
『王が民を守れぬ。惨めなことよな。もっとも、ベオクの奴隷の鴉は民ではないか』
力があったら良かったのか?
俺はあまり腕力はない。魔力は強いが、それも所詮「鳥翼族にしては」って程度だ。
風は操る。繊細な風の流れを読んで、人よりは早く飛ぶ。でもそれだけだ。
……俺は、王の器じゃない。わかっていても、キルヴァスにはもう俺しかいなかった。投げつけられた王位でも、捨てる先がなかった。捨てられるなら、泣かなかった。
だから、こんな時は誰よりも強く力のある王になりたかった。
哀れな娘の悲鳴を、止めてやれるぐらいには。
『困ったら、俺を呼べよ。ネサラ』
呼べるはずない。
呼んだところで、届くわけがないだろう。
『どこにいても、必ず助けに来る。いいか? 必ずだ』
幼い頃、助けてくれた鷹に言われた言葉だった。
生まれて初めて飛ぶことの怖さを知って、泣きじゃくる俺を抱きしめて、そう約束してくれた。
大きくて、力が強くて、飛ぶ姿は優雅とは程遠い。
ともすれば乱暴なほどの荒々しさで空を駆ける、獲物を捕らえるための猛禽の翼と鉤爪。
なにもかもに圧倒される。
鴉の俺には到底持てないものばかりだ。
そんな言葉、信じてなかった。声に出しても叶うはずない。もうそんなガキじゃなかったんだ。俺は。
『やめろ…やめてくれ……』
立て続けの悲鳴はすぐに弱々しい呻き声になり、単調な咀嚼音だけが響く。濃い血の匂いに吐きそうになりながら、俺の力ではびくともしない檻の柵を握り締め、無様にずるずると崩れ落ちた。
鴉の娘は、俺の正体を知らない。生まれた時から奴隷で、死んだ時も奴隷だった。
散々に辱められて、鴉に生まれて空を飛ぶことさえ知らないまま、自我を壊された虎に生きながら食われて、ただ死んだ。
泣くな。
そう思うよりも早く落ちた涙が、俺に縋ろうと伸ばされたまま力尽きた娘の手に落ちた。
『鴉王よ。そなたの主人は誰だ?』
大きな塊が俺の喉を塞ぐ。
今叫べば、声が届くかも知れない。
そんな馬鹿な思いを振り払う。
呼べば興味を持たれる。それだけはごめんだ。
これ以上の犠牲を出さないために、従順な目をして、俺は恰幅の良い僧服のニンゲンを見上げた。
しゃがれた声で告げる。
俺の言葉に満足した男――ルカンの顔に、たとえようもなく下卑た笑みが浮かんだ。
「……!」
ひゅう、と喉が鳴った。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
白っぽい、雨漏りの痕が滲む見慣れない低い天井が見えた。
鼻に感じるのはベオクの匂いだ。きつすぎる香料の匂いが辛くて眉をひそめると、ひやりとしたものが頬に触れた。
びくりと肩が揺れたのは無意識だ。
慌てて視線を向けた先には、金髪の巻き毛と上品な髭をたくわえたクリミアの道化文官がいた。
「気がつかれましたかな?」
「………フェール伯……?」
「ずいぶん酷くうなされておいでで、心配いたしました」
覗き込んで来たのは、ユリシーズだった。水で絞った手巾で額と頬を拭われたらしい。
呼びかける声が我ながら弱々しく掠れ、咳き込んで水を渡される。
どうにか二口飲んだところで、自分の状況を思い出した。
確か、泥の妙な化け物に襲われて、危ないところを助けられて……。そうだ。レニング卿の馬に乗せられて近くの村についたんだ。ここはベオクの宿だな。
鼻につく安っぽい香料は別の客の残り香か……。くそ、このせいで厭な夢を見たらしい。
近づいてきたユリシーズから感じる匂いは、もっと品が良くて控えめだ。いかにもベオクの伊達男らしいとつい笑いそうになる。
辺りを伺うと、こざっぱりとした様子のいかにも小さな村の宿らしい部屋だった。
壁や床の敷物もないがカーテンの生地はそれなりの厚さで、暖炉もある。辺境の小さな村としては、これでも上等な方だろう。
「鴉王様、失礼をば」
暖炉の炎をぼんやりと眺めていると、今度は冷たい手でそっと額に触れて前髪をかき上げられた。
その冷たさに息をついて、俺は眠る前に無理やり起こされて風呂に入ったことも思い出した。手を貸すと言い張るユリシーズとヤナフを無視して入って、なんとか身体を拭いて夜着に着替えたところで力尽きたんだったな。
「熱は少し下がったようですな。いや、昨夜は心配いたしました。湯殿で倒れたことは覚えておられますかな?」
「あぁ、なんとなくだがね」
「さようなこともあると存じましたゆえ、我輩でなくとも鳥翼王の『目』の君の手を借りていただければと思ったのですが、いやはや。鴉王様は殊に慎み深いご様子。たとえ同性であれど肌を晒すなどあってはならぬとばかりに倒れてしまわれ、このユリシーズ、どれほど心配いたしましたことか……」
「心配ねえ……。あんたの大事な女王陛下じゃあるまいし、大げさな」
いつものことながら、感心した。「手伝わなくていいから出て行け」って一言からよくもそれだけ話が出てくるな。
「それはもちろん、わが麗しき女王陛下と並ぶ者など、いかな美姫であろうともおりはいたしませぬとも。ですが、鴉王様。あのように瑠璃の花が散らされたが如く倒れるようなことになるならば、この次はどうぞこの手を取ってくださるよう、心よりお願い申し上げたく……
「わかった、わかったから…ゴホッ」
相変わらず持って回った言い方をするユリシーズにうんざりと言い返したとたん咳が出て、俺は力の入らない身体をなんとか起こした。
「杖での治療はいたしましたが、いけませんな。ご気分はいかがです?」
「悪くはない。翼もあんたが……?」
「ラグズにはラグズの治療法があると、雄々しき鳥翼王の『目』の君がそれはもう見事な手際でなされました。錆びた剣で受けた傷だそうで、弱った御身のために毒消しとオリウイ草が必要であると伺い、我輩にできましたのはその煎じ薬を真心込めて、深き抱擁とともに鴉王様の柔らかな薔薇色の唇に直接に流し込むくらいのことでしたな」
「な…ん、だと……!?」
なんとか咳の発作が鎮まってほっとする間もなくとんでもないことを言われて、俺は自分の口を押さえて凍りつくような思いでぎくしゃくと俺の背中を撫でていたユリシーズを見た。
まさか、口移しで飲ませたのか!?
すると俺の顔を見たユリシーズの顔に意地の悪い笑みが浮かび、言いやがったんだ。
「念のため申し上げますが、我輩の唇は我が心の主、ルキノだけのもの。なによりも、繊細なる鴉王様の胸に住まわれし大切な方を裏切るような真似ができようはずもございませぬ。その柔らかな唇に触れたのは、この宿の店主より借り受けしグラスでございますが?」
もちろん、横たわったままでは危のうございますゆえ、抱き起こさせてはいだきましたが……と続けられ、俺は呆れるより先に耳まで熱くする血の気を抑えられなかった。
熱が出ていて幸いだ。赤くなろうがわからないだろうからな。
だが、俺の反応を楽しんでにやにやと俺を見てやがるユリシーズにとりあえず疾風の刃をお見舞いしようと翼を出しかけて、鋭く走った痛みに息が止まった。
「く…っ」
「鴉王様、無理はいけませぬ。その麗しき蒼黒の翼は今、傷を負っているのですから。ささ、今一度御身を横たえて眠るがよろしかろう」
「くそ、離せッ」
「鴉王!」
俺を支えようとするユリシーズの手から離れたところで、窓から冷たい空気と共にヤナフが飛び込んできた。
かすっただけだと思っていたが、それなりに深かったようだな。翼を消している時は、翼に負った傷の痛みは背中に出る。
何度か浅く息をすると少しずつ背中の痛みが落ち着いて、俺はほっと息をついた。
「あんた、熱出して寝込んでたんだぞ!? まだ起きられる状態じゃねえだろ!」
「……もう大丈夫だ」
「大丈夫なわけあるかッ!」
「レニング卿は?」
「情報収集に出たんだ。ほら、もうちょっと横になれって。剣が錆びてただろ? 傷自体は大したことなかったんだけどよ、破片が中に入っちまってたからちょっと大きく切らなきゃならなくなったんだ。熱が出たのは冷えたことより、それが原因だろうな」
あぁ、それは確かにそうかもな。
お節介なヤナフの手を借りてもう一度横になると、硬くて小さな手が濡れた首筋にまとわりつく髪を払ってくれた。
「だいぶ汗をかいておりますな。それでは傷にも良くないでしょう。少し拭いた方がよろしかろうと存知ますが?」
「いらん」
「じゃあ、おれがしてやるよ」
「必要ない」
「あのなあ、こんな時まで意地はってどうすんだよ!」
遠慮なく毛布に伸びたヤナフの手を払うと、俺は痛みを堪えて寝返りを打ち、なんとか二人に背を向ける。
もちろん、俺だって汗をかいた身体は気持ちの良いもんじゃない。それでも他人に拭かれるのは嫌なんだ。
……ニアルチがいればな。せめてシーカーでもいい。いないものは仕方がないから、我慢するだけだ。
だが、しつこく残る痛みを堪えながら考えを巡らせ始めた俺になにを思ったのか、またユリシーズが呆れるようなことを言い出した。
「ふむ。大空の覇者たる鳥翼王の……」
「ヤナフ!」
「では、ヤナフ殿。鴉王様はことに肌を見せるのを厭うご様子。ラグズはベオクよりも両性の身を持つ者が多いと聞き及んでおりますが、もしや我らが友好の架け橋となろう外交官たる鴉王様こそが、その両性を持つ『乙女』なのですかな? もしさようでしたらこのユリシーズ、心からお詫びを申し上げねばなりますまい」
「はあ!? そ、そんなはずねえけどな? こいつがガキの頃おれが脱がせてやった時は確かに男だったような……あ、でも鴉の方が鷹より両性体が多いって聞くし、おれも脚を広げて見たわけじゃねえしなあ」
………おい。どんな理屈だ、それは。
顔を見合わせたらしい二人の気配にため息をつきかけたが、それも咳で叶わない。
仕方なく俺は咳を堪えながらぼそぼそと言った。黙っていればこのままどんどん誤解が広がりそうで面倒だからだ。
「俺は男だ。鴉は男女関係なく他人に簡単に肌を見せない。ただの習慣の違いだろう」
「はあ!? だってあんた、いつも胸元を見せてるじゃねえか」
「はン、着崩し方についちゃ、おまえの王こそどうなんだ? 少なくとも俺は腹まで見せちゃいない。それより、頭が痛いんだ。静かにしてくれないか」
うんざりと言うと、ユリシーズは笑ったままだがヤナフは黙った。
人が弱ってるうちにからかおうなんて、本当に趣味が悪いおっさんだぜ。クリミア城に泊まった夜は大抵酒を飲みながらカード片手にあれこれ話すから、ベオクの中ではかなり気さくに話せる相手ではあるんだがな。
こんな時は正直、疲れる。
他に聞かなきゃならんこともあるのに、緊張感のない会話になるのはどうしたらいいんだろうな。
体調から来るだけじゃない頭痛をこめかみを押さえて堪えながら、俺はヤナフに言った。
「今は何刻だ?」
「夕刻前だ。昨日、この村に着く前にウルキに事情は告げた。雨雲を抜けたらまだ外は明るかったぜ。てっきり夜だと思ったのに、あの雨雲、見た目より厚かったんだな」
ヤナフの説明に頷いて視線をユリシーズに移すと、道化文官はすぐに俺の意図を汲んで話を継いだ。
「泥人形と同じく、魔力で作られたものですな。もっとも、それだけであの怪物は生まれはしませぬ。元は人の心からなる怨念でありますれば」
「……どういう意味だ?」
「あれは、無残に死を突きつけられた者の心の成れの果て。人が死ぬと魂は女神の御許に行くなどと、幻想に過ぎぬことを我らは既に知っておりましょう」
「…………」
「思いが重なり、淀みとなり、あるきっかけを得て噴き出すもの。前回、前々回は『負』の気はあってもそれを統べる者がなかった。ですが今回は違う」
いつも飄々とした掴みどころのないユリシーズの目に鋭いものが含まれる。口元は微笑んだままだが、表面に見せた顔に騙されると痛い目を見るクリミアの重鎮の表情だ。
「術者がいるのか?」
「恐らくは……」
恭しく下がったユリシーズから視線を外してもう一度起き上がると、なにも言わずにヤナフが俺の背をヘッドボードとクッションにもたれさせる。
面倒なことになったな……。
一体、どんな相手なんだ?
第一、目的はなんだ?
クリミアか?
「一応言っとくけど、さっきおれが辺りを見回した時にゃ怪しい奴は見なかったぜ」
「どうだろうな。あぁ、おまえの捜索能力を疑ってるんじゃない。ここはまだラグズ差別の激しい辺りだからな。おまえの姿を見て姿を隠す輩が多いんじゃないか?」
「んー、そりゃそうかもな。けど、ずいぶんましにはなってるぜ? 復興作業でここにもラグズが手を貸しに来たからさ。今はまあ、少なくとも石は飛んでこねえな」
「それはましになったと言えるのか?」
まったく、嘆かわしいな。
夢見も悪かったし、どうにもベオクは好きになれない。
ついそんな感情が漏れて出て、それが伝わったらしい。視界の端にユリシーズが申し訳なさそうにそっと頭を下げて詫びの気持ちを見せているのが映った。
べつに、あんたのせいじゃないだろう。そう言うのは簡単だが、同じベオクのしたことだと思えばなかなか割り切れないのかも知れないな。
「フェール伯、被害はクリミアだけか?」
「それは目下、調査中です。今のところクリミアに集中しておりますが、この分では時間の問題かと」
「あんたとレニング卿が直接? ずいぶん大物が乗り出したんだな。あんたたち二人が外に出るのは危険じゃないのか?」
エリンシア女王は気性が優しい。ともすれば甘いほどだ。
以前はそれで貴族連中にいいようにされた。抑え役が二人もいないのはどうなんだと訊くと、ユリシーズは形の良い髭を撫でて笑った。
「陛下にはもうお守りの手は必要ありませぬよ。それよりも、ようやく落ち着きだした民衆の生活を守ることこそ、麗しき我が主君たる女王陛下の御心に叶う火急の儀と心得まして、殿下とともに動いている次第です」
……国内に火種があるなら、この機会に動き出す。それよりも以前のようにこの事態が今の女王の治世に問題があるからだと騒ぎ出す輩を出さない方が大事ってところか。
あとはレニング卿の話だな。ここで待ってるだけってのも間抜けな話だし、外の様子を見に行きたいところだが……。
「あ、コラッ。なに勝手に開けてんだよ!」
寝台脇の窓を開けただけでヤナフに飛び掛られて少々辟易する。
でも俺はそんなことよりあることに気がついて、内心で驚いた。
いや……これ自体は大したことじゃない。寒いんだ。
「ラグズの方々には熱さましなどはないのですかな? 我々の薬でしたらいくつか持ち合わせがあるのですが」
「いやー、ないワケじゃねえけど、錆びた刃物傷の熱は下げちゃいけないんだよ。下手したら死んじまうんだってさ」
「それは…確かにそうですな。ベオクでもそう申します。ただ、鴉王様は食欲もなさそうでどうにも心配で」
「こいつ、あんまり食わねえんだよ。スープぐらい飲ませてえのにな!」
「それは確かに。早速店主に頼んで参りましょう」
凍りつくような冷気を遮るようにゆっくりと窓を閉めた俺の背中で、二人が好き勝手に話している。
でも俺はその話を半分も聞く余裕はなかった。
窓から覗いた外の様子は、ごく普通だ。農夫が行き交い、少ない店の客、旅人がちらほら行き交う温暖なクリミアの村。離れた場所に見える山の山頂や尾根はまだ白いが、この辺りには雪の気配もない。
それなのに、この寒さはなんだ?
「……ヤナフ」
「なんだよ?」
「今日は、冷え込んだか?」
「いいや、べつに、普通だぜ?」
「そうか」
「あ、寒いのか? やっぱり熱があるから寒気がしてんだろ。それに食わねえしさあ。スープは飲めよ?」
「あぁ、わかってる」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくるヤナフに小さく笑いながら頷くと、ヤナフは「うおお、素直な鴉王って気持ち悪ぃ!」と、失礼なことを言って笑いやがった。
まったく、どっちにしてもこいつは騒ぐんだな。
しかし……どうしたものか。
熱のことはどうでもいい。問題は、俺の身体の異常だ。
毛布の下でそっと触れたのは、左手の手首にはめた王者の腕輪だった。
銀でも金でもない。変色することのない金属で作られたラグズそれぞれの種族の宝。王たる者だけが身につけることを許されたものだ。
それがまったく機能していない。
「……気持ちが悪い」
「あ!? 吐きそうか?」
あながち嘘じゃない気分で口元を押さえると、慌てたヤナフが羽ばたいて俺を覗き込む。
「ちょっと待ってな。洗面器かなんか探してくるから。間に合わなきゃこれの上に吐いとけ。寝台はなるべく汚すなよ。寝られなくなっちまうからな」
珍しく落ち着いた口調で言うと、ヤナフはいつも肩に巻いている緑のスカーフを俺の手に握らせて慌てて部屋を出て行った。
お人好しなやつだ。本当に俺が汚しても怒りもしないんだろうな。見掛けが若いどころか子どものようなのに、鳥翼の連中であいつが揺るぎなく兄貴分として慕われる理由がよくわかる。
階下へ行った気配を読んで、俺は酷く緊張しながら意識を背中に集中した。もう痛みは気にならない。
「……さすがに、こっちは無事か」
痛みを堪えながら夜着をはだけて具現化させた翼がばさりと広がって、俺はほっと息をついた。
風の気配は…大丈夫だな。疾風の刃は使える。ただ、化身ができない。
化身ができないってことは、ラグズとしては戦闘力がほぼなくなったも同然だ。恐る恐る寝台から降りて羽ばたくと、身体は浮いた。痛いだけなら飛ぶことも問題ない。
それでも化身ができないとなると、移動速度は落ちる。それに、こうして窓を開けて感じる寒さは変わらない。
俺たち鳥翼族が冬でも薄着でいられるのは、身の回りを風の魔力が包み込んでいるからだ。これは魔力が高い、低いは関係ない。
……俺の今の状態はどうなんだろうな。少なくともいつものままの恰好じゃ、寒く感じる。ってことは、俺もベオクみたいな厚手の上着を着なきゃならないってことか。
ベオクの上着には翼を出す切れ込みがないし、歩くにしてもベオクほど健脚じゃないのは問題だな。
階段を駆け上ってくる気配を感じて、俺はもう一度翼を消して夜着を着なおした。飛び込んできたのはヤナフだ。
「待たせたな。大丈夫か!?」
「あぁ、吐く前に落ち着いた。悪かったな」
「水臭ぇよ、気にすんな」
嘘をついて追い出したのは少しばかり申し訳ない。スカーフを返しながら詫びると、ヤナフは大らかに笑って細く開けた窓から外を覗いた。
「もうすぐレニング卿も上がってくる。昨日ウルキに報告入れたし、そろそろセリノスから誰か来るかも知れねえ。おれはちょっと出てくるぜ」
「わかった」
俺が動けないってのもあるだろうが、元々じっとしていない性格のヤナフはそう言ってすぐに外に飛び出した。
小さな村だからな。村のベオクも見慣れたのか、特に騒ぐことなくヤナフが高く飛んで行く姿を見上げる人がちらほらといるだけだ。
それにしても、うっすらと朱色がかったさびれた村の風景ってのは、殊更に侘しいね。
この分じゃ俺はいつクリミア城にたどり着けるやらわからない。書簡を渡したい相手もここにいることだし、さっさと仕事を終わらせておくべきかも知れないな。
「失礼する」
「どうぞ」
脇の小さな机に置かれた鞄からごそごそクリミア宛の書簡を出していると、甘ったるい匂いをさせながらレニング卿が戻ってきた。
昨日の黒騎士姿じゃない。腰の得物の他は普段着だ。この年齢のベオクにしては覇気があり端正で、形のいい髭と相俟って育ちのよさを伺わせる。
「鴉王よ、お加減はいかがかな?」
「悪くはないね。あんたにも手間を掛けた。感謝する」
「滅相もない。思ったよりも顔色が良いようで安心いたした」
それに、自身も身分は高いのに仕え慣れてる。
俺自身はもう自分が王位にあるつもりはないが、自然に口調が「鴉王」に戻るのは、この男の持つ雰囲気のせいだろうな。
俺はラグズの中じゃベオクと付き合いが長いし、深い。良い意味よりは悪い意味の方が強いが……それでも、騎士という者の本質はわかってるつもりだ。
レニング卿は、王族としてよりも騎士としての立場に存在意義を見出してるんだろう。
「フェール伯は?」
「鴉王の食事を用意するつもりだったようだが、ヤナフ殿に無理そうだと言われて外出した」
「……それで、あんたは諜報活動を?」
「情報は酒場に入りますからな」
酒場、ね。それでこの甘ったるい匂いってわけだ。
「ベオクの情報収集と言えば、酒場と女か。確かにそれは俺にはできないな」
ちらりと向けた視線で俺の言葉の含みに気づいたらしい。年齢相応の男っぽい笑みが形の良い唇に刻まれた。
「避妊が確実にできなければ、ラグズの身ではベオクの女は抱けますまい」
「羊や豚の腸ってのは破れやすいらしいからな。まあいい。それで、寝物語の成果はあったのか?」
あまり一般的じゃないが避妊具ってのもあるにはある。…が、実際のところあまり役には立たない、……らしい。らしいってのは俺自身は使ったことがないからだ。
破れやすくて、つけてると男も女も悦くないって話だからな。それでも使うとなると、これ以上子を増やせない家庭など、使用者は限られる。
もっともそれはベオクだけで、ラグズの方はそれほど子ができやすいわけでもないし、子は一族の宝だ。避妊なんてまず考えない。
レニング卿に水を向けて出てきた話は、さっきのヤナフとユリシーズの話に加えて、この異変の前に必ず雨が降るということだった。
まず最初に、遊びに出た子どもとそれを迎えに出た母親が犠牲になった。村人が見つけた時には、母子ともに川の近くで泥に埋もれるように亡くなっていたそうだ。以来、村人は雨に怯えながら暮らしている。
ただ、昔も似たようなことがあったが、いつの間にか落ち着いてるから今回もきっとそうなんじゃないか……。レニング卿の相手を務めた女はそう言って諦めたように笑っていたとのことだった。
……ますます、わからないな。とりあえず雨に注意ぐらいか? 俺の浴びた雨はやけに絡み付いてくる感じだった。でもそんなことが判断材料になるのかねえ?
「話はわかった。ところで、これはクリミア宛の書簡だ。せっかくだから確認してくれ」
「承知した。返書は城に戻ってからでよろしいか?」
「それで構わない」
俺が落ちかかる前髪をかき上げて頷くと、レニング卿はそれ以上なにも言わずに向かいの寝台に腰を下ろして俺が手渡した書簡を読み始めた。
俺も、なぜ自分が化身できなくなったか考える。
ヤナフの様子だと、あいつは化身ができる。それなのに俺だけできなくなってるのはなぜだ?
俺とあいつの違い……。泥に足を取られたかどうか。その程度しかわからない。
でも、それだけとは思えんな。最後にはあいつも地面に足をつけていたはずだ。あの妙な手に掴まれたかどうかってところか?
レニング卿やユリシーズがなんともないのは、炎の魔法が使えたからか?
なにより、昨日俺が捕まっていた最中のことを思い出そうとすると、記憶に霞がかってはっきりしないのが苛ついた。
くそ、これも熱のせいか? ちょっと傷を受けたぐらいで情けない。
あの頃は貧血でふらふらだろうが熱でまっすぐ歩けなかろうが、キルヴァスからベグニオンまで何往復もしたことだってあったのに。
この有様じゃ、一回海に落ちたらそのまま沈んじまいそうだな。……笑えない。
もう一度水を飲んで空になった水差しを置いた時だった。
ふと、宿の外がざわついてるのに気づいてそっと窓を開ける。
「何かありましたかな?」
「……騒いでいるな」
どうやら村人が数人集まって話し合ってるようだ。
獣牙族ほどではないが、俺もベオクよりは耳が良い。外に出ようとしたレニング卿を引き止めて耳を澄ませると、心配そうな調子で話す声が拾えた。
「子どもが一人帰ってこないようだ。母親が探しに行こうとしてるが、前の二の舞になるんじゃないかと……。もう日が暮れてしまう。雨は降っていないが、男衆が何人かで探しに行こうかと話し合ってるな」
「それはいかん。もしも昨日の輩ならば、犠牲が増えるだけでしょう。鴉王、私が捜索して参ります」
「いや、フェール伯が帰るのを待った方が良いんじゃないのか?」
炎の魔法が確実らしい昨夜のことを思い出してそう言ったんだが、レニング卿は腰の剣を見せて不敵な笑みを浮かべて首を振った。
「炎と光の魔法の他にも、有効な武器があることがわかったのです。それは聖水で祝福を受けし銀の武器。ただ武器に聖水の加護がある内しか使えませぬが、子どもを助ける間ならば持ちましょう」
そう言い残すと、レニング卿はもう振り向きもせずに部屋を出て行った。
銀の武器、ねぇ……。確かにそれは俺たちには使えないな。
俺はくちばしに、鷹は鉤爪に加護をもらった銀のアクセサリでもつけてみるか?
自分でも自分の考えが馬鹿馬鹿しいのがわかっていたから、もう乾いた笑いしか出なかった。
「……なんだ?」
やっぱり窓を開けたままだと寒い。脇に掛けられていた上着を肩からはおって窓辺を覗くと、またちり、と響く声があった。
これは、確か昨日もあったな。あの雨雲の中に入る前に聞こえた声じゃないのか?
いや、声というより、これは……。
気になる。
気になったことはどうしても調べずにはいられないのが俺の性分だ。
幸い全員出ていて俺を止める者もない。ヤナフ辺りは見つけるかも知れないが、その前に様子を探るぐらいのことは自分の目でしておきたい。
なにより、一体誰が俺を呼んでいるのかが気になった。
翼はまだ痛むが、傷はもう塞がってる。
汗を吸った夜着を脱いで、着慣れた黒衣に着替える。再度窓から外を覗くと、やっぱりな。「声」が強くなった。
「冬の夕焼けってのはどうしてこう寒々しいのかね」
赤いのに、暗い。苦手な時間だが、俺は飛びなれてる。……大丈夫だ。
さっきよりも軽くなった痛みを確認して翼を出すと、俺はそっと羽ばたいた。何人かには見られたかも知れないが、音を立てずに飛ぶのは鴉の特技だ。これぐらい暗ければ黒いのも相俟って目立ちはしない。
ヤナフがどこから見ているかわからないから、とりあえず屋根の煙突の影に座って見辛い目を凝らした。
「川の方か? 雨は降ってないようだが……」
てっきりあの雨雲がわいて出たかと思ったのに。雨の気配はない。
となると、一体この声はなんなんだ?
化身できないとわかっている以上、迂闊に動くのは危険だ。それはわかっているのに、声に引き寄せられるような感覚にはどうにも抗い難かった。
まるで、昔……あいつらに妙な薬を使われた時のように。
獣牙族には獣牙族用の、鳥翼族には鳥翼族用の薬があるんだ。もっとも、鷹と鴉じゃ効く成分がまったく違うが、飲まされて、匂いを嗅がされると人形のように身体の自由が奪われるような。
あの状態では、目の前でなにが起ころうが自分になにをされようが感覚が馬鹿になっていて、面白くないとあいつらはすぐ俺に対して使うのをやめたんだが。
「なんだ、これは……?」
ただ、あの時と似た酩酊感が俺の中に湧き上がってきていた。
発情した女の誘惑みたいなものか? 俺は発情期前に鴉王になってから不健康な生活が長すぎて、まともな発情期を知らないから言い切れないが…本能の部分が告げる。
発情期の男が吸い寄せられるようにふらふらと女に絡め取られる、そんな強制力に感じた。
妙だな。今の俺は体調が良くない。いや、むしろ最悪に近い。だからそんなものに反応するはずもないのに。
「………ちがう」
この、「声」は……。
ふらりと俺は立ち上がった。
レニング卿やユリシーズのことも、意識から消え失せる。
音も立てず羽ばたくと、血のように暗く赤い空に浮かんだ。
自分が飛んでいるのか、引き寄せられているのか、わからなかった。
――危ない。行くな!
頭の中で、自分の声が聞こえる。
それなのに、身体が言うことを聞かない。
妙に現実味のない赤い風景を眺めながらしばらく飛ぶと、流れのゆるい川と古ぼけた木製の橋が見えた。
ふと、耳に小さな声が聞こえる。
幼い子どもの声だ。……怯えているな。
粘った魔力がとぐろを巻いてるのも感じた。これは昨日と同じだ。またあの化け物か?
もし子どもがいるなら、早く見つけなきゃいけない。
霞がかった意識を必死で繋ぎ止めると、俺は不自由になった視界に舌打ちしてゆっくり高度を下げた。
どこだ? 橋げたか?
「ひ…ッ」
「ベオクの子どもだな?」
思った通りだな。橋げたの影に怯えた気配を感じて降りると、ようやく五つになるかどうかぐらいのベオクの坊主が震えていた。
「そんなところに隠れていると危ないぞ。出て来い」
息を呑む音がして、坊主が固まる。
空からいきなり黒尽くめの、しかも不吉の象徴と言われる鴉のラグズが降りてきて声を掛けたんだ。そりゃあ怖いだろうな。
だが、このままにしておくと確実にこの子は死ぬ。
どんなに暴れられても引きずり出すしかないと思っていたが、俺を見上げて呆けた坊主はやっと正気に返ったように、差し出した俺の手を握った。
「お…おにいちゃんは、カラスなの?」
「そうだ。怖いか?」
大きな目を転がり落としそうに丸くした子どもを抱えると、坊主はしばらくじっと俺の顔を見て考えていた。
男の子がやんちゃなのはベオクもラグズも変わらないんだな。
「ぼく…こわく、ないよ」
「そうなのか?」
「うん。たすけにきてくれたの?」
「成り行きでな」
冷えた身体に、子どもの体温が心地良い。
不安だったんだろう。目に涙をいっぱいにためたままほっとしたように笑った顔を見て、俺まで笑った。もっとも、俺の方は苦笑だがね。
「世の中には怖い人もたくさんいる。自分の身が守れないうちの遠出は良くないぞ」
「うん…」
「おかあさんが心配している。ちゃんと謝れよ」
「わかった」
指先で涙をぬぐってやりながら言い聞かせると、坊主は神妙に頷いた。
よしよし、これだけ素直なまま成長してくれたら、もう少しベオクとラグズの間も仲が良くなりそうな気がするんだがな。
それにしても、いよいよ視界が悪くなった。怖がらせないよう、ゆっくりと村の方に飛んでいると、「あ」と腕の中で坊主が声をあげた。
「どうした?」
「カラスのおにいちゃん、なんか…川がヘンだよ」
「どう変なんだ?」
「ゴポゴポしてる」
意味がわからん。もう一度聞こうと思ったが、その前に俺の耳にその気配が伝わってきた。
同時に、俺を呼ぶ「声」の力がいっそう強くなる。
おいでなすったか。しかも自惚れじゃなけりゃ俺は、どうやら連中に好かれてるらしいな。
「お化けだな」
「おばけ!?」
「そうだ。ここは危ない。坊主、おまえ一人で村まで帰れるか?」
雨が降っていない今、この辺りに湿気はない。恐らく泥人形は出てこないだろう。不思議なほどはっきりと感覚でそれがわかる。
「…うん!」
坊主はしばらく躊躇したが、意を決したように頷いた。
「いい子だ。じゃあ帰れ。いいか? 絶対に振り向くな。振り向かずに、村まで一気に走れ。恐らく途中まで迎えの者が来ているはずだ」
「カラスのおにいちゃんは?」
「俺のことは気にしなくていいさ。なにせ、俺には翼があるからな。坊主は自分のことだけを考えな」
それでも迷った顔で俺を見上げる坊主をそっと下ろすと、俺は小さな背中をぽんと叩いて笑ってやった。
それでようやく納得したらしい坊主が走り出した。最初は何度か振り返って、見送る俺に安心したように、真っ直ぐに。
本当は村まで送り届けたかったんだが、また俺の意識がやばそうだったからな……。仕方がない。
ゆっくりと向き直ると、またあの感覚が襲ってくる。
本当は、興味だけで自分を危険に晒すわけには行かない。
もうキルヴァスはないんだ。民を守る責任はティバーンが持って行ってくれた。
だが、俺には償いをする義務がある。
自分の中に、そんな妙な考えがぐるぐると浮かぶ。
民を守る責任はもう俺の肩にない…? そんなわけあるか。呼ばれたくなくても、「鴉王」の名は今もなお俺の上にある。鴉の民も、鷹の民に引け目を感じて、まだまだ小さくなってるんだ。
鴉の民に怒りが向かないよう、俺が矢面に立たなくてどうする?
そう思うそばから、「鴉王」の名じゃなくてただの「ネサラ」と呼ばれたがる心が浮かんでは消える。
……誰だ? そんなこと、もうとうの昔に諦めた。
俺の心を操作してるのか?
それより、寒い。
震えながら自分を抱きしめるように身を竦めると、まるで風に流される凧のように身体が流されていくのがわかった。
泥人形……? いや、いない。
じゃあ、なんだ、この気配は?
「だ…れだ……!?」
振り絞るように声を出して抗うと、翼に嫌な痛みが走る。離れたがる俺の意志を無視した翼の動きがおかしい。
それでも逆らおうとしたところでとうとう浮力がなくなり、俺はしたたかに地面に落ちた。
「く…!」
高く飛んでいたら骨折どころじゃなかったかも知れないな。
痛みで意識がはっきりしたのも一瞬だ。またすぐに足が地面から離れて、身体が川へ引き寄せられる。
いつの間にか、耳に入る川の水音が変わっていた。不自然に歪められた音……。
とぐろを巻いた魔力が形になって見える気がした。
人の……形?
爪先が水の中に降りた。刺すような冷たさに、初めて自分が素足のままだったことを思い出す。
俺を中心に水がうねった。まるで包み込むように水が割れて、ぼんやり発光しながら人の形になって行く。
闇魔法の光に似た、でももっと濁って澱んだ……鈍い色。
その光にまとわりつかれながら、俺は目を凝らした。
『カ…ラ…ス…オ…ウ…』
脳裏に直接響いたのは、しゃがれて低い、男の声だ。
俺は…この声を、知ってる。
もう一度呼ばれて、俺の中の記憶が弾けた。
ルカン…!!
「は…離せッ!!」
腕を掴もうとしてきた手を振り払ったのは、本能だった。
でも、水だ。砕け散ってもすぐに元の通りになる。
水でできたルカンの姿が揺らいで、今度は抱きつくように襲い掛かってきた。
冗談じゃない!!
全身の毛が逆立つような衝撃が走って、勝手に化身が始まった。
音を立てて関節の形が変わる。人型の時よりも視界が暗くなり、その代わりすべての力が強くなる。
俺は何の加減もない疾風の刃をルカンに叩きつけた。
できなかったはずの化身が急にできた理由はわからない。ただ、必死だった。
全身を包んで俺を引きずり込む水の圧倒的な力に対抗したいだけだ。
だが、さらに濃くおぞましい魔力が俺を覆って、勝手に化身が解けた。化身の力を維持するはずの王者の腕輪の守護石が点滅するように光っている。
でも俺にはなにが起こったかわからない。息が苦しくなって自分が川底に引きずり込まれかけてるのがわかり、また勝手に化身が始まった。まるでイタチごっこだ。
そもそも、俺たち鳥翼族は泳ぎは得意じゃない。冬で水位が下がってもこの深さじゃ、どうしようもなかった。
大体、化身ってのは負担がかかるんだよ。だから普通はこう立て続けに化身したり、解いたりはできない。その負担をなくすのが王者の腕輪で…くそッ、どうなってやがる!?
強制的な化身と解除を繰り返して体中の骨がばらばらになりそうで、俺は何度も水を飲んでむせながら自分が水の中にいるのか、それとも外にいるのかさえわからなくなった。
「ネサラ!!」
水とは思えない粘り気に包まれて動けなくなってきた俺を、誰かの手が捕まえる。
そのまま物凄い力で引きずり出されて、掴まれた腕が嫌な音を立てた。
「クソッ、なんだこいつは!?」
体当たりのように俺の全身がぶつかったのは、固い男の身体だ。体温の高いむき出しの胸板と、なによりこの匂いは……ティバーンか!?
そう思った瞬間、繰り返していた化身が落ち着いて開かなかった目が開いた。
「ヤナフ! 術符を持っとけ!」
「了解!!」
俺を片腕で抱きしめるというより締め上げたまま、ティバーンが懐から黒い小袋を出して後ろに投げる。
ぼんやりと見上げた先に見つけた顔は、いつもの通り小憎らしいぐらいに逞しく男っぽい「鷹王」だった。
「ティバーン、危ない……」
「危ないのはてめえだろ! しかし、水の化け物までいるってのは聞いてねえぞ!?」
泥も水だ……。雨も。
きっとそういうことだろう。
そう言いたかったんだが、情けないな。声が出ない。
未練たらしく俺の足に絡んだ水が俺を強く引いて、軋んだ痛みに殺し切れなかった呻きが漏れた。
水が相手じゃどうしようもないだろ。とりあえず離せと言い掛けたんだが、それよりもティバーンの方が早かった。
「しつけえな! ヤナフ!!」
「はいよ!」
荷物のようにヤナフに投げ渡されて、どうにか振り向いた先で緑がかった鮮やかな光が膨らんだ。水が気圧されたように引く。
ティバーンの化身の光だ……。
一瞬だった。
淡い緑の燐光を帯びた巨大な猛禽が舞い上がり、俺を掴んでいた水を引き裂く。
「ぅ…あ…ッ!!」
「鴉王!?」
その瞬間、頭の中に直接おぞましい悲鳴が響いて、俺は全身を硬直させながら頭を抱えた。
ルカンの声だ。どうして…!?
恨みがましい呪詛にも似た呻きを残して、ゆっくりと俺の身体からすべての水が滴り落ちて消えた。
まるで、最初からどこも濡れてなかったように。
「鴉王、どうした!?」
「ったく、水なら水らしくおとなしくしとけ! ネサラ、大丈夫だったか!?」
小柄なヤナフには俺の身体は重いだろうに。
頭を抱え込んだまま強張った俺を必死に川岸まで運んでくれたヤナフの腕から身を起こすと、ティバーンが慌しく人型になりながらそばに舞い降りた。
なんでここに鳥翼王がいるんだ?
仕事はどうした?
「ネサラ!」
「ぐ…ぅッ」
問いかける前に胃の腑からせり上がったものがあふれ出て、俺はかろうじて二人から身体を離してなにもかも吐き出した。
とはいえ、なにも食っていないし中身は水だけだ。くそ、結構飲んじまってたらしいな。
内臓が拒絶するように強制的に吐かされて、やけに粘ついた最後の水が出るまで、俺はずいぶん苦しめられた。
もう息も絶え絶えだ。震える手からいつの間にか握りこんでた小石だか草だかを落としながらぐったりと倒れかけたところで、初めて自分がティバーンに抱え込まれて背中を叩かれてるのに気がついた。
わざわざ長い後ろ髪まで持ってくれている辺り、呑み助の鷹がどれだけ酔っ払いの介抱慣れしてるかがわかるな。
「もう大丈夫か?」
「溺れたからなー。飲まなくてもいいけど、とりあえず口をすすいどけよ。ほら」
ぼろぼろ零れた涙と鼻水は生理的なものだから仕方がない。それでもこんな顔を見せるのは屈辱だ。
「おい。言やぁ手ぬぐいぐらい貸すだろが」
「うるさい」
暗いから見えないだろうが、ばれるのがいやで顔をティバーンの服の袖で拭くと、俺はヤナフが差し出したスキットルの中身をあおってうがいした。
…って、やっぱり酒かッ!
「おま…ッ、ど、んな酒…持ち歩いて…んだッ!」
「どんなって、そりゃ飲むにも消毒にも使える酒に決まってるだろ。なあ?」
「そりゃそうだ。酒と傷薬ってのは一つで充分だろ」
……やっぱり鷹と鴉は仲良くなれる気がしない。
あまりの酒の強さにもう一回盛大にむせたところをまたティバーンに背中を叩かれて、ようやく俺は一息つくことができた。
乱れた息も辛いが、頭も痛い。いよいよ本格的に風邪でもひいたんじゃないだろうな。
「おまえ、冷え切ってるじゃねえか。大体、なんでこんなとこをうろついてんだ?」
「そうだぜ! 寝てろって言ったのに!」
立ち上がるだけで気力を使い果たしそうだ。大体、それを聞くのは俺の方だろう?
馬鹿力で引っぱられて痛む腕を押さえながらなんとか立ち上がると、頼んでもいないのにティバーンが俺を支えようとする。
その腕を払いのけて、俺はなんとか声を出した。
「それはこっちの台詞だと思うがね。あんたこそ、なんでこんなところにいるんだ?」
「ウルキの報告を聞いたんでな。誰が行くよりも確実だろうが?」
「………あのな。あんたがいない時にセリノスになにかあったらどうするつもりだ? 大体、なにか事があるたびにあんたが出てくるわけにはいかないってことをわかってるか?」
「いずれはな。セリノスにはニケがいるし、リアーネにも頼まれた。おまえを守れってな」
狼女王は客人だし、大体なんでリアーネまで知ってるんだ? ふらつきながらもなんとか飛んで視線を向けると、ヤナフが横に首を振る気配がした。じゃあティバーンに聞くしかないか。
「話したのか?」
「嗅ぎつけられたんだよ。おまえもあいつらの鋭さはよくわかってるだろうが。アイクたちも来るぜ」
「アイクが?」
あいつらが動くほど面倒なことになってるのか? そんな意味で訊くと、ティバーンは俺の頬に触れて強引に腰に片腕を回しながら答えた。
「どうもきな臭い話になってきてる。思ったより長引くかも知れねえぞ」
「…………」
ティバーンの低い声に、背中に冷たいものが走った。
さっきの水が作っていたのは、間違いなくルカンだ。あいつは女神の塔で死んだ。止めを刺したのはサナキで、俺も見ていたから知ってる。
それなのに、どうして……?
「あ、レニング卿の方も片付いたようですね。じゃあおれ、鴉王が無事だってことを知らせに行ってきます!」
「おう、俺もすぐに行く」
俺が寒さだけじゃない震えに自分の腕に爪を立てたところで、遠くを見ていたらしいヤナフがそう言って飛び立った。
残されたのは俺とティバーンだけだ。
「村の方にもなにかあったのか?」
「ああ、急に馬が暴れだしてな。泥の化け物が出た時もそうだったってんで村の連中が騒ぎ出したんだ。動物の方が鋭いからなにか感じたんだろ」
「そうか」
頷きながら、俺はほっと息をついた。
二人とも夜目が利かないとはいえ、この男がいるってことは俺の身の安全は保障されたも同然だな。……皮肉だがね。
「大丈夫だ」
自嘲する思いでひっそり笑うと、それを見ていたように俺の腰に回ってた逞しい腕がもっと俺を引き寄せる。本当に体温が高いな。あんなに寒かったのが嘘みたいだ。
「なにがだ? はン、俺が守ってやるって?」
そんなの、望んじゃいない。
吐き捨てるように言うと、ティバーンは笑って片腕で強引に俺を抱え上げた。
まったく、力だけは余ってるな。このまま俺が浮力を失っても平気なんだろうさ。
「誰が『鴉王』に対してそんな無礼なことを言うかよ。おまえのことだ。どうせまたいらん心配事を抱えてんだろうが? 今度は、ちゃんとそれを俺に寄越せ。そう言いたいだけだ」
「そんなもの………」
「あるんだろう?」
見えないはずなのに、ティバーンの金褐色の目にどれだけ強い光が浮かんでいるのかがわかった。
断言しやがって……そんなもの、あるはずがない。大体、これは心配事じゃないんだ。
俺自身がどうにかしなきゃならない問題だろ。
ティバーンはもう片方の腕も回して黙り込んだ俺の翼を撫でて、もう止まり掛けていた羽ばたきを止める。
ちょうど怪我を負ったところだ。ヤナフに聞いたんだな。
「おまえが素直に白状するなんて思ってねえよ。暴くつもりもねえ。もちろん、必要な時は手段を選ばねえがな」
……それは暴くとは言わないのか?
大体、意地の張り合いで俺に勝とうってのが甘いだろ。
「ネサラ?」
「…………」
それでも、こうしているうちにまとわりついていたあの声も歪な魔力も遠くなって、強張っていた自分の身体から少しずつ力が抜けていくのがわかった。
きっと、ティバーンの気配の強さに勝てなかったんだ。そりゃ、あの程度の男がティバーンに勝てるはずない。
俺だって、誓約さえなけりゃ負けなかったさ。今だってその気になれば……。
それ以上考えることを頭が拒否して、俺はこみあげた衝動に勝てずにほとんど無意識にティバーンの肩口に顔を埋めた。縋りつかなかっただけまだましなぐらいのみっともなさだ。
「ったく、そらみろ。具合が悪いんだろうが。俺が来たからにはそう簡単に寝台から出られると思うなよ?」
「うるさい。あんたがそんな言い方をするから俺たちが怪しい関係だって噂されるんだ」
勝手なことを言いやがって。具合が悪いとか、そんなんじゃない。
俺は………。
離れようと思うそばから、ティバーンの身体に回した腕に力が入っていく。
助けてくれだとか、俺を守ってくれだとか……。そんなつもりは一切ない。それは嘘じゃないんだ。
ただ、―――怖い。
そんなたった一つの感情を認めたくなくて、俺はこれ以上ないぐらい確かなティバーンのぬくもりに溺れた。
抱き返す腕の強さに、まるであの頃の俺が包まれているようで、俺はもうなにも言わずに飛ぶティバーンの首筋に額を預けて目を閉じた。
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